今朝、4時に目が覚めた。音のない世界だった。風の音も、雨が降りしきる音も無く、車のエンジン音や新聞配達のバイクの音も聞こえなかった。ただ、かすかにコオロギが鳴いていた。嵐の前の、という様相だった。
最近早く目が覚め、朝読書に勤しんでいるのだが、今日は霜山徳爾「人間の限界」 もう、何度読んだのだろうか。奥付は1986年となっているので、25年前の本である。
読む度に新たな発見がある、といえば余りにも当たり前の表現だが、今回新たな驚きがあった。
中国・北宋の時代にあった「纏足」 幼児から足の成長を阻まれ、「不生産的な存在、男性の玩弄物になり、人間として自立することができなかった」 女性たちの存在である。霜山氏は「纏足を施した『思想家』たちに呪いあれ」という言葉で、「足もまた人間を語る」という文章を終えている。
名著フランクル「夜と霧」の訳者である霜山氏。これぞ慈愛とも言えるようなものを感じさせるヒューマニスト霜山氏が「呪いあれ」という非常に強い言葉を使われた意味。
この本の名にも使われている「限界」、つまり「限り」に「機会」という意味があることを指摘している。
「限界があればこそ、そこには、いのちの限りに与えられる行為のチャンスがあるにちがいない。それはいったい何であろう。それはわれわれの日々の生活に直接にかかりあう主題である。われわれが、ささやかながら自己を打ち立てようと、内面の旅をする時、この点の考察は欠くことができない。ましてや昨今、この大衆社会の内において個人としてのわれわれの非力をいやというほど思い知らされ、また近代のモットーであった「進歩」の信仰がその生み出した技術文明の歪みによって失われつつあるだけになおさらのことである」
この霜山氏の視点が、
一日の生活(いのち)を
まことに生くる者の上に
光あれ (宮本正清)
安らいの み国あるべし
青澄める 雲なき空の 明かしこの果 (島秋人)
という「希望」を紹介できるのである。
前にも書いたが、島秋人は罪を犯した悔恨と絶望と共に「蒼穹・青空」を詠んだのである。
「限界」が時に「機会・チャンス」であり、時に「絶望」であり、その「絶望」の淵からまた「希望」を垣間見ることができる、と霜山氏は語っているのだろう。
強さが優しさであり、優しさが強さであることと同様である。と考えれば「嵐の前の静けさ」というのは極めて必然なのかもしれない。
まっ、いいか。さあ、来い!嵐!