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地震後7ヶ月のブログ

私のつれづれbooks

  • マキアヴェリ 君主論
    決断力のない君主は、当面の危機を回避しようとするあまり、多くのばあい中立の道を選ぶ。そして、おおかたの君主が滅んでいく。(君主論) 弱体な国家は、常に優柔不断である。そして決断に手間どることは、これまた常に有害である。(国家論)
  • 奥田英朗 著: 町長選挙

    奥田英朗 著: 町長選挙
    題名が気になるが、ホリエモンやナベツネをモデルにした、ユーモアあふれ、どこかペーソス(哀愁)を感じさせる、人生賛歌?

  • 佐々木 毅著: プラトンの呪縛

    佐々木 毅著: プラトンの呪縛
    民主主義の可能性と限界を考えさせるプラトン。ではいかなる政治が?小泉自民党を支持した私を含む日本国民が慎重に考えなければならない。

  • 土門 拳: 土門拳強く美しいもの

    土門 拳: 土門拳強く美しいもの

  • 日本経済新聞社: 歴史から読む現代経済

    日本経済新聞社: 歴史から読む現代経済
    全章興味深いが、第12章 「エネルギーの覇権」:土市勉 は柏崎の方なら必読。僭越ながら、原子力と水素:燃料電池の関連づけは私も浜岡原発の事故の際に思いついた。

  • 村上 龍: 半島を出よ 下

    村上 龍: 半島を出よ 下
     益々さわやかさからは遠ざかる。暴力がテーマ、となると北野武監督になると思うが、村上龍自身監督をつとめた経験もあるのだから、いずれ映画化されるであろう。それを意識して書かれた作品。  北野武が蓮實重彦にその自殺願望を見抜かれたことと同様、気付かれたくない、けれども気付いてもらいたい、落ちていく日本、それに気付かない日本人。実は日本自身に自殺願望があるのだ、それを感じ取ってくれ、との叫びの様にも感じられる。希望は?再生は?さて、・・・・。         

  • 村上 龍: 半島を出よ 上

    村上 龍: 半島を出よ 上
    さわやかな連休には一番ふさわしくない本だが、今の日本人が一番読まなければならないような気がする。読み始めたばかりだが、そう感じた。20年ほど前、同じ村上龍の「愛と幻想のファシズム」を読んで唸ったことがあるが、同様にインパクトがある本のように思える。

  • 幸田 真音: 小説ヘッジファンド

    幸田 真音: 小説ヘッジファンド
    4.5年前のものだが、今読むと日本経済、システムがよく分かる。結末は少し出来すぎ。


  • 佐伯 啓思著: 「市民」とは誰か(PHP新書 022)

    佐伯 啓思著: 「市民」とは誰か(PHP新書 022)

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2005年4月12日 (火)

PAY OFF

 ペイオフが4月1日から「完全解禁」となった。「全面解禁」という言葉も使われている。実に日本的だなあと思う。文化、文化と言うと「文化人」になれる。「完全」、とか「全面」とか言う言葉は、当然その裏に「不完全」とか「部分」というものがある。これはご存じの通り日本の実態から出ている。希望的なのだ。

 本日付の日経「金融取材メモ」に金融庁の配慮というか、保身というか、お節介が記されていた。要は、金融庁のホームページ にわざわざ「本格実施」と記したり、決済用預金の全額保護は「恒久的措置」と記されていることをお隣韓国などの措置と比べて「過保護」なのでは主張しているのである。

 もっともなことである。私も1980年代、規制「緩和」と言う言葉が現れた時、おかしいのでは、と疑っていた。するとやはりこの言葉に対応する英語はderegulationであり、de という否定の接頭辞とregulation という規制が組み合わせられたはずであるから本来、規制「撤廃」と訳すべきものである、という主張が現れ、我が意を得たのであった。調べていくと、当時の通産省か大蔵省の官僚が対米政策の中で施した巧妙な技術であることがはっきりとしてきた。そして、規制「緩和」がもたらした罪は1990年代、つまり「失われた10年」と呼ばれる停滞につながる。

 先に「ホリエモンはさて?」で記したとおり、私自身は実際のところ、いわゆる日本人的な、漸進主義、保守主義、聖徳太子的、談合体質であると思っているのだが、誠に残念ながらそれでは日本は立ちゆかなくなる様なポジションに既に立っているとも思うのである。つまり、世界市場の中で稼いでいくためには、そのルールを守っていかなくてはならない。資本主義社会において稼ぎ出した所得を再配分する作業が政府の仕事であり、そのスタイルを主にヨーロッパのように、相互扶助型、社会保障重視型とするか、アメリカの様に個人責任重視型とするか、によって大きく違ってくる。このことは、税率や医療保険、年金制度などの相違からも明らかなことである。

 日本はよくその中間を目指すべきだ、という意見が出てくる。いわゆる「中庸」である。聖徳太子の精神であり、孔子の世界である。このことを世界が理解してくれるかどうか、理解させようとする壮絶な覚悟があるのかと言う点にかかっている。憲法改正問題も話題を提供しているが、世論調査に由れば、(朝日読売)改正論者は5割、6割と多数であるが、九条となるとその改正の割合は落ちる。誰がどう見ても軍隊である自衛隊を、軍隊ではないと「解釈」することを「日本の知恵」だとするならば、日本文化のルーツとも言える、中国、韓国両国にさえ理解してもらえないだろう。求められているのは率直であり、ある意味覚悟である。残念ながら、日本にも、柏崎にもまだ覚悟がない。うすうすは気づいているのだが、そこまで踏み切れない「日本人の姿」がそこにある。そしてその姿は尊敬されない。「名誉ある地位」を占めることはできない。

 論理を追い求め、二進法の世界で稼ぎながらも、義理・人情・年功の十進法でことを動かそうとする。欧米の個人主義、ヒューマニズム、そして合理主義は基本的にキリスト教の「寛容の精神」に基づいていることに気付かねばならない。個はあくまでも自立し、責任を負う「覚悟」がある時、初めて尊敬され、そして公共の中で認められるということを学んできている。権利と義務という極めて基本的な概念が身に染みこんでいる。柏崎では未だ、義務の時代が終わり、権利の時代が始まったばかりである。

paul_gauguin

 Paul Gauguin, French, 1848–1903
  Where Do We Come From? What Are We?                               Where Are We Going?

  「もったいない」に代表される日本人の美徳や伝統というものを大切にしながらも、好むと好まざるに関わらず、世界はつながっている。代表的であり、面白いのは、政治の世界で、守旧派と言われた野中広務氏やその子分とも言われる古賀誠氏が憲法九条を含めた「護憲派」と言われるのはパラドクスでもあり、真理でもある。心配なのは日本も柏崎も気が付いたときには既に先進国でもなく、先見性に満ちた優れた自治体でも無くなっていることである。

 今日、生徒の保護者から「どうして待てなかったんですか?」と昨年の選挙のことについて聞かれた。何十回と無く聞かれた質問である。その答えになったであろうか?1年前、4月13日柏崎市長選出馬の記者会見をさせて頂いた。私自身も変わっていこうとしたのだ。私だって怖かった。

 今、さらにオマエの覚悟は?と問われると難儀なのだが、ペイオフ完全解禁であろうが、本格実施であろうが、その点に関しては心配しなくて良くなった。

 

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