本当のところ、そしてアメリカ・ニッポン
マイケル・ジャクソン氏が無罪となった。私は、その詳細を知るものではない。しかし、私のみならず多くの者が、「ウーン」と唸ったに違いない。つまり、少年に対する性的虐待という、日本人にとっては最も忌避されるべき話題・事柄から来る限りないマイナスイメージはいかにマイケル・ジャクソンと言えども多くの人間の心証を変えてきた。ジャクソンファイブで売り出したときのボーイソプラノの無邪気さや透明なもの。であるがゆえに、整形を重ねた風貌とさわやかさとはかけ離れたファッションはイメージを怪異なものとして定着せしめた。正に「スリラー」であった。一般的なところであろう。
「not guilty」 という判決は、文字通り「有罪ではない」ということなのだが、情報からくるイメージと客観的事実とは別物であり、事実・証拠が明確でない限り「有罪ではない」ということなのだろう。疑わしきは罰せず。一方、マイケルが被ったイメージダウンは誰がその責を負うのであろうか。まさか国家賠償があるとは思えない。また、このことは、人を審判すること、私たち一般市民が報道などから得る情報というものをどのように理解するべきか、と言う課題を改めて考えさせた。
以前、私は罪と罰とは常に、その事柄だけに関するものであって、その過去が継続するのはおかしいと考えていた。具体的に言えば、前科○犯、というのはおかしいのではないか、と考えていたのだ。つまり、犯した罪に対して罰が下されるのであって、そこで清算されるべきだと考えていた。もちろん、死刑は反対論者であった。団道重光氏の「死刑廃止論」は有名であるが、私はそこまでの論を到底持つものではない。ただ、人を法の下において、「殺して良いのか」という単純なものである。きれい事、と承知である。
また、今から6年前にアメリカに行政評価に関する視察に出かけた。その際、個人的に強いショックを受けたことがある。各自治体で行政評価の対象として挙げられる例がいつも「幼児虐待に関する行政の取り組み」であった。私の英語力は大したことは無いのだが、一般的な会話の理解と返答ぐらいはできる。交わす会話の中でどうしても聞いたことがない単語が一つあった。それが「abuse」(虐待)であった。それも、親が自分の子どもを虐待する。それに防ぐために、そしてケアするために、自治体がどのようなサービスを提供するかが関心事である、と言う事実であった。私の想像の範囲を超えていた。日本でもここ数年連日のようにこの種の報道が聞かれる。私は、その場面になるとチャンネルを変える。アメリカ社会と日本社会との「時差」はなくなりつつある。
話が流れてきてしまったが、罪とは、罰とはということに関して大それたことを言うつもりは毛頭ない。ただ、日本でも検討されている陪審員制度も含め、赦すということの事実と許せないという感情の間には何があるのだろうか。
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