なぜ待てなかったのか
選挙からもう7ヶ月になる。時は平等である。何もしないまま過ごしてきてしまった。あれもしよう、これもしようと思うのだが、本業となった子どもたちへの学習指導以外、結果無為な時間を過ごしてきた。
そして、未だ直接、間接に「なぜ待てなかったのですか?」と言われる。ここでしっかりと答えておこうと思う。
私は西川市政を良いものと考えていた。県内他市、また国内でも秀逸の市政を展開されていたと思う。これは独りよがりかもしれないが、私が一番良くそれを知っていた。
多選批判ですか、と言われる。一言で言えばそうなのかもしれないが、そんなに単純ではない。敢えて、より単純に、そして乱暴に言えば「飽きてしまった」
西川さんの能力は頭抜けていた。しかし、西川さんが5人も10人もいるわけではない。何でもできる、と考えた路線はだんだんと柏崎の「身の丈」を越えていった。柏崎ぶどう村しかり、フォンジェしかり、トルコ文化村しかり。
また、感覚は残念ながら前時代のものとなっていった。大きいもの、カタチで表すもの。ハコモノとは言わない。つまり、自然環境への慈しみを「環境共生公園」で表したり、高速交通網の整備を「ミニ新幹線」と短絡化したり。
そして、触れなければならないのは西川さんと経営する企業に関する「噂の量と頻度」である。事実関係は別である。柏崎の市長が、西川さんがこんな噂の中で仕事を続けることは、私が許せなかった。もちろん、その噂は私にとって利するものであるから、ほくそ笑んだ事もあったかもしれない。しかし、何よりもこんな状態が更に4年続いてはならない、と強く信じていた。
時代は、動いている。既成のもの、伝統、日本的なもの、漸進主義。私も大好きだ。ただ、国は一応世界に開かれている。否応もなく、合理的なものが、実質が求められている。まあ、いいさ、と言っているウチに実態がなくなってしまう。都市間競争の中で、建前ではなく、カタチではなく、「本当に求められているもの」「率直なもの」を見極め、選択していく、感覚と覚悟が柏崎には求められている、と私は考えた。柏崎だけは先進であり続けたい、と願っていた。
正直なところ、西川さんの政治的駆け引きについては未だ不愉快な思いがある。同時に、西川さんと市長・議員と言う立場で一緒に一時期の市政を動かした、という感謝もある。
残念ながら私に対し、「なぜ待てなかったんですか」と問いかける人は殆ど、私が惨敗する、と思っていた人である。西川さんが圧勝すると思っていた人である。私が選挙のあと使った「限界」と言う言葉。「そんなに簡単に使うな」とお叱りを受けた。確かにそうなのかもしれない。けれども本当はあの時、柏崎の限界、と言いたかった。
口はばったいが、2月、同級生のお父さんから言われた言葉「何でも良いけど、柏崎のこと、見捨てんでくれよの」私は返す言葉に詰まった。
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