夏思い出すこと・思うこと
甲子園、新潟代表日本文理高校が惜敗した。テレビを通しても高校生の眼差しの真剣さ、思い、歓喜、悔しさが良く伝わってくる。私は以前高校野球の出来すぎた純粋さに辟易を感じたことがあったが、今は次男も野球に身を投じているせいか、年を取ったせいか、純粋を渇望しているせいか知らぬが、画面に映し出される高校生に目頭が熱くなった。
10日前の日経で豊田泰光氏が書いている。(8月3日 チェンジアップ )
夏の高校野球、西東京大会決勝の早実-日大三戦には泣かされた。早実が2点差を追いつき、延長でサヨナラ勝ちしたのだが、ポーカーフェースなどできない両校投手はピンチを迎えるたびに真っ青になっていた。その姿に胸が締め付けられた。
中略
まれには文武両道の人もいるが、普通は無理だ。女の子とつきあっても甲子園は遠くなる。何かを捨て、犠牲にするという選択をして、早実や日大三の選手たちもあそこまで上がってきた・・・・・・。勝手に我が人生と重ねて感動していたわけだが、高校野球のファンは多かれ少なかれ、自分の青春時代をそこに見ているのではないだろうか。
すべてをかなぐり捨てた心持ちは必ずプレーに出る。だから、名も知らぬ生徒達の一挙手一投足が胸に迫ってくる。ところがプロ野球にはいると、そんな無分別な時代のことも忘れ、不調の年はまた来年と考えてしまう。私もそうやって自分を甘やかす方向に行ったものだ。
後略
今朝、柏崎には雷雲が押し寄せ、風がたつまき、強い雨が降った。そして、今は強い陽射しの中、蝉が鳴いている。高校生とおぼしきグループが頭の毛を濡らしたまま、自転車で通っていった。海に行って来たのだろう。私が高校生の時と変わらぬ光景である。
蝉の声を聞いてふと思い出したのは、東京にいる頃の夏である。上野公園である。西洋美術館に通い、絵を見て、本を読んで一日を過ごしたことが何回もある。ひんやりとした美術館の雰囲気と静謐な空間は読書にも最適であった。通い詰めて何日目かに、いかにもそれらしい自分の行動に、姿に急に恥ずかしくなって、バカらしくなって飛び出した。蝉がこれでもかと言うぐらいに鳴いていた。公園脇の成人映画館に飛び込んだ。上野の成人映画館に入ったのは、柏高の卒業式の日とこの時の二回だけである。
私は、ゴッホやルオー、レンブラントが好きなのだが、日活も好きだった。
私は何を犠牲にしてきたのだろう。何を得てきたのだろう。これから何を犠牲にするのだろう。何を得るのだろう。上野に行きたい。美術館はもちろん今でもあるが、成人映画館はもう無いのだろう。私は美術館を出て一体どこに行けばいいのだ。
「私は人が思っている以上に目撃者であり、当事者であって、心やさしい観察者ではない。そのため私は時に、人々の世界とはかけ離れたところで、夢と現実のいたばさみになる」 Georges Rouault,Sur I' Art et sur la Vie,Paris ,1971 訳:千足伸行(成城大学教授)
娼婦と道化師を描くルオーのことが私は好きなのだ。豊田泰光氏も高校球児も好きなのだ。
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