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地震後7ヶ月のブログ

私のつれづれbooks

  • マキアヴェリ 君主論
    決断力のない君主は、当面の危機を回避しようとするあまり、多くのばあい中立の道を選ぶ。そして、おおかたの君主が滅んでいく。(君主論) 弱体な国家は、常に優柔不断である。そして決断に手間どることは、これまた常に有害である。(国家論)
  • 奥田英朗 著: 町長選挙

    奥田英朗 著: 町長選挙
    題名が気になるが、ホリエモンやナベツネをモデルにした、ユーモアあふれ、どこかペーソス(哀愁)を感じさせる、人生賛歌?

  • 佐々木 毅著: プラトンの呪縛

    佐々木 毅著: プラトンの呪縛
    民主主義の可能性と限界を考えさせるプラトン。ではいかなる政治が?小泉自民党を支持した私を含む日本国民が慎重に考えなければならない。

  • 土門 拳: 土門拳強く美しいもの

    土門 拳: 土門拳強く美しいもの

  • 日本経済新聞社: 歴史から読む現代経済

    日本経済新聞社: 歴史から読む現代経済
    全章興味深いが、第12章 「エネルギーの覇権」:土市勉 は柏崎の方なら必読。僭越ながら、原子力と水素:燃料電池の関連づけは私も浜岡原発の事故の際に思いついた。

  • 村上 龍: 半島を出よ 下

    村上 龍: 半島を出よ 下
     益々さわやかさからは遠ざかる。暴力がテーマ、となると北野武監督になると思うが、村上龍自身監督をつとめた経験もあるのだから、いずれ映画化されるであろう。それを意識して書かれた作品。  北野武が蓮實重彦にその自殺願望を見抜かれたことと同様、気付かれたくない、けれども気付いてもらいたい、落ちていく日本、それに気付かない日本人。実は日本自身に自殺願望があるのだ、それを感じ取ってくれ、との叫びの様にも感じられる。希望は?再生は?さて、・・・・。         

  • 村上 龍: 半島を出よ 上

    村上 龍: 半島を出よ 上
    さわやかな連休には一番ふさわしくない本だが、今の日本人が一番読まなければならないような気がする。読み始めたばかりだが、そう感じた。20年ほど前、同じ村上龍の「愛と幻想のファシズム」を読んで唸ったことがあるが、同様にインパクトがある本のように思える。

  • 幸田 真音: 小説ヘッジファンド

    幸田 真音: 小説ヘッジファンド
    4.5年前のものだが、今読むと日本経済、システムがよく分かる。結末は少し出来すぎ。


  • 佐伯 啓思著: 「市民」とは誰か(PHP新書 022)

    佐伯 啓思著: 「市民」とは誰か(PHP新書 022)

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2011年6月

2011年6月28日 (火)

目指そうではないか

 今朝の朝日、音楽評論家吉田秀和翁は「フェリシティ・ロット」の歌声を「英国人の知恵」が導き出したものであると論じている。

 彼女ほどの「世界的な名歌手でも、生まれ故郷の水に洗われた歌を歌う時は心底気安く、また快くて、しかも心の深いところから沸きでてくるものに乗って歌えるものか、と思った」と翁は綴り、それを支えているのは「公衆」、「英国人の知恵」とも言うべき保守精神であると見通していらっしゃる。

 なるほど、公の衆。大衆ではなく、「公衆」

 私は以前、quantity(量)からquality(質) への転換を、と叫んでいた。自身の資質もさることながらあまりにも「大衆」に成り下がっていないだろうか。

 すぐに調子に乗る、何が基だったのかを忘れる、あまりにも感じる力、考える力が落ちてきているのではないだろうか。

 懸命な努力にもかかわらず、5時間で止まる、1時間半で止まる放射能浄化装置。

 政権内部から崩壊しているにも関わらず行われる閣僚人事。

 福島県自民党の脱原発宣言。

 南相馬市、東電株主総会での脱原発提案支持。

 それぞれ、感じ、考え、そして、今こそ明らかな構想と決然とした意志が示されなければならないのに。だから「限界」と申し上げたのだ。

 目指そうではないか、「公衆」を。私も「公衆」の一人でありたい、と願っているのだ。

 ということで、学習塾SEAももうすぐ「夏期講習」の季節です。受けるべし。

2011年6月27日 (月)

お詫び申し上げる

 我が性は生まれて粗野なりければ、はじめは嗜むでものを感ぜしが、いつしかその嗜は病の如くに、心はともすれば顫へて止まらず、幾たびか人に軽んぜらる。人人の我を軽んずること、凡そは我れの愚かしきによるとはするも、また激しきに過ぎんとす。怒りて額を打つべきか。争ひて勝たんと願ふ心乏しく、いつとなくいとはしきもの愛しきもの、みな遠く渚をすぎゆきけり。夜の眠りのあさはかに、昼は昼とて遊べども花実もあらず、まことにかく世の努力をいとふ心こそわりなく悲しけれ。我が要なき生涯は要なき故に短からむ。風の日の旗よりも草の葉よりも動き易い、我があはれに短命な行手を知り、思想に煙のごときものを感じ、野山を愛し季節を愛し、都会を愛し、また女を愛し、鳥や魚や草木に心をよすれども、我が言語はつねに飄零にして、我が額はつねに快き色をもたぬために過ちてまたその心を伝へず。
 されども我はまた今我が春秋の短きを知り、日日に明らかに身を知るが故に、力むる如くにも、ただ一日の歌を要なき生涯に与ふるのみ。
                            
「秋夜弄筆」(三好達治)

 

 過日、2年半ほど前の私の言葉についてお叱りがあったそうだ。もちろん、私はその言葉を覚えているし、ご指摘はもっともなのかもしれない。不愉快を感じる方もおられただろう。ただ、私は怒っていたのだ。尊大であろうと傲慢であろうと怒っていたのだ。

2011年6月22日 (水)

柏崎・フリーマーケット

 ほぼ10年ぶりに、いや15年ぶりに現場復帰することとなった。7月16・17日に開かれる「7.16(なないろ)ハートプロジェクト」の一環で開く「1%のチカラ・フリーマーケット」のことである。

 中越沖地震から4年、東日本大震災へのチャリティを含めた「フリーマーケット」で若く、チャーミングな女性ボスにお仕えすることとなった。

 元々、柏崎風の陣で行われている「フリーマーケット」に20年前関わった、というか主催側の一人であった。柏崎で行われる初めてのフリマ、私は東京・四谷にある日本リサイクル運動市民の会へ研修に行ってきた。代々木公園のフリマを始めた老舗団体である。手探り状態から始めたフリマであったが、その後継続して携わってこられた皆さんのおかげで、抜群の集客力となった。たぶん、県下はもとより、日本海側でも屈指のフリマになっていると思う。皆さんのご尽力に改めて感謝。

 さて、7/16.17のフリマ、今のところまずまずの反応である。ますます出店者募集ですので、柏崎市内、新潟県内の方お申し込み下さい。ボスは心配しております。「みんな来てくれるかなあ」って。

 フリーマーケット未体験の皆さん、お買い物も楽しいですけれども、出店も楽しいですよ。20年前の初回なんか、自ら出店し、海岸に酒屋さんからビールや冷えたワインの配達を頼んで宴会モードだった。そのうちにお腹が空いてきて、田尻屋だったか盛来軒だったかから出前までとった。それでも出した物は全て売れた。というか売った。売り上げ数万円。楽しかったなあ。

 皆さんも出ませんか?フリーマーケット。お越しになりませんか?フリーマーケット。もしかしたら日本国総理大臣も売られているかもね。誰も買わないか。

 おーい、柏崎よ、強い、明確なメッセージを!みんな出ているぞ。

 

 

 

 

2011年6月20日 (月)

2つのパターン

Photo

 女子美で頂いてきた手ぬぐいである。女子美の校章にもなっている「八咫鏡」(やたのかがみ)をデザイン化している。

 「八咫鏡」(やたのかがみ)はご存じの通り八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とならぶ「三種の神器」の一つである。

 天孫降臨の頃、天照大神が天の岩戸の奥にお隠れになり世の中が真っ暗になった。困った世の者たちは細く開いた隙間にこの鏡をあて、天照大神ご自身のお姿を映らしめ、興味と共に外の世界に導き申し上げた。再び世は光に満ちあふれた、というお話である。

 まあ、もう一つの話もある。

 天照大神に岩戸から出てきて頂くために、八百万の神々は岩戸の前で頭を悩ましていた。酒が入り、宴会となった頃、天鈿女命(アメノウズメノミコト)が裸となって踊り始めたところ皆の哄笑が沸き起こり、その声に興味を持たれそっと岩戸の隙間から見ていた大神を引っ張り出した、これが世に言うストリップの始まりである。という下世話なパターンで覚えているのが私をはじめとする世の男どもである。

 ということで、八咫鏡の力であっても、ストリップであっても良い。(個人的にはもちろん、     )今の暗い世相を明るくして頂きたい。

 それにしても天照大神は本当に女性なのだろうか。

2011年6月19日 (日)

20年が経ち、変わったもの変わらぬもの

 日曜日の朝、短パン上半身裸の男がそれぞれ自分の部屋から出てくる。長男、次男様のお目覚めである。

 「オゥ」 朝の挨拶も夜の挨拶も変わらない。全くうるおいも色気も無い朝である。

 三男はまだ寝ている。

 昨日は往復700km、相模原の女子美との往復。ETC休日割引最後の土日のせいか通行車両は多かった。加えていえば、スピード違反の取り締まりも多かった。「後に続け」というパトカーの電飾に何度も肝を冷やした。

 さて、20年ぶりの相模原キャンパスの訪問であった。このキャンパスは私が女子美を辞める前年にできたものである。竣工の式典以来の訪問である。植えられたケヤキも桜もみな大きくなり、落ち着いた装いを演出している。

 嬉しかったのはお世話になった方々との再会である。画材イワタの社長、大学事務局の課長女史。本当に変わりなく、温かく迎えて頂いた。イワタさんは女子美の付属でも出店されており、随分お世話になった。昨日はおばちゃんやケンちゃん、ケンちゃんの奥さんにはお目にかかれなかったが、あの頃、皆さんにお世話になった。ケンちゃんが作るラーメンはおいしかったなあ。あのスープ以上のスープに出会ったことは無い。

 課長女史とも変わらぬ友情を確認できた。私のいつもながらの「ぞんざいさ」を管理職として上手く流しながら、上品にあしらいながら、一方20年の空白を飛び越えて「親しみ」を伝えてくれていた。ありがとう。

 本当に嬉しかった。私は20年前に女子美を捨てて、柏崎に帰った男である。

 一昨日はその柏崎高校の同窓会幹事会。今のところ私が一番出たくない会の一つである。しかし、友情あふれる同級生が8人も幹事会に出てくれ、それぞれの役割を果たしてくれた。ありがとう。また、同級生以外にも多くの方が声をかけて下さり、意外と楽しい時を過ごすことができた。ありがとうございました。

 今朝の新聞は民主党執行部が首相に「辞任」を迫る、と書いてある。当の首相は自分の功績作りに見苦しきはしゃぎぶりである。

 菅首相よ、男女関係のみならず、大切なものを捨てることもあれば、大切だと思ってきたものに捨てられることもあるのですよ。

 経産大臣よ、そんなに簡単に原発の再稼働が認められると思うのですか?なぜ、そんなに簡単に一国の首相が法的根拠もなく、浜岡を止めたのですか?あなた達は政府ではないのですか?

 柏崎よ、なぜ明確な「考え、メッセージ」を示さないのですか?今こそですよ。

 今こそ、なのに。「少し変わる勇気」の「少し」の意味を考えて頂きたい。

 20年の歳月、私もスピード違反で何度も捕まり、今や身長178、175の長男、次男が部屋を占領している。

 ハイ、これから日曜出勤。中間試験対策講座ですぞ、起きなさい、三男くん。

 

2011年6月15日 (水)

柏崎のえんま市 2011

 今年は49歳になってのえんま市である。露天商が570。毎年のことだが未だウキウキする。柏崎小学校の子どもたちはランドセルを揺らしながら走っている。家に帰り、一刻も早くえんま市へ、という気持ちがそこここにあふれている。子どもらしい姿に多くの大人たちが微笑む。

 もちろん、我が学習塾SEAもお休みである。交通規制の関係もあるのだが、何よりもえんま市に塾を営業しようものならば反乱、クーデターが起きる。SEA創業以来20年の中で、1回だけ営業を試みたことがあった。誰も来なかった。

 私も昨日は中学校野球関係者との飲み会、今日は先輩・おじさんとの飲み会、明日は小学校野球関係者との飲み会、である。えんま市は偉大である。

 今は露天の90%ほどが食べ物関係ではないだろうか。昔は色々な香具師がいた。

 「皆さん、私はパイロットの元従業員です。工場が焼けて、クビになりました。給料をもらえない分をこうして黒くすすけた万年筆で受け取りました。おにいさん、万年筆で勉強しなさい、。グーンと成績上がるよ。真っ黒な万年筆だって、ほら洗えばこの通り。新品同様。いや、新品だよ。これで履歴書を書けば就職も大丈夫。就職はまだ早いか!1本どう?もう1本オマケで付けちゃう!お兄さん、賢そうだから、彼女の分も、女性用も付けちゃうよ!」とおじさんは道ばたに広げた黒い万年筆の山から、1本、また1本と選び出し、隣の洗面器で水洗い、腰に付けたタオルで磨くのである。小学生だった私は2年目まで「毎年パイロットは火事になるんだ」と信じていた。3年目にして「いくら何でも3年連続して工場が火事になるのはおかしい!」と喝破したのであった。さすが「賢い」子である。

 今思えば、買っておけば良かった。賢くなって、良い就職も決まって、おまけに彼女まで付いてきたんだ。残念である。今私が使っているのはセーラーである。パイロットになれずにケ・セラ・セラである。

2011年6月11日 (土)

村上春樹氏の発言・私の親友

 作家、村上春樹氏の発言と私の親友について書きたい。先ずは村上春樹氏の6月9日スペイン・カタルーニャ国際賞受賞にあたってのスピーチである。毎日新聞が原文のまま掲載してくれた。(ありがとうございます)

 

 「非現実的な夢想家として」

 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。

僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。

 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。

 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。

 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。

 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。

 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。

 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。

 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。

 どうしてか?

 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。

 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。

 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。

 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。

 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。

 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。

 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。

 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。

 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。

 日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。

 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。

 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。

 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。

 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。

 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」

 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」

 しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。

 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)

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 このスピーチのことを親友に告げ、改めて原発に関する私の認識と過去における言動が「間違っていた」ことを書いたところ、「誰よりも安全を願い、村上春樹が言うように新しいエネルギーについても考えていたのだから、やるべきことはやったのだと自信を持つように」というメールを送ってくれた。

 この男は私の幼なじみであり、後援会長を務めてくれた男であり、小心者で、人前では話ができない男である。ただ、私が初めて市議会議員に立候補したときに私という男を、人間を極めて正確に描写した温かな文章を寄せてくれた男である。10年ほど前、原発プルサーマル問題で苦境に立ったとき、「お前が共産党になると言えば俺も共産党になる、そんなもんだ」と言ってくれた男である。その彼に私は私に関連する後援会を含む政治団体がこの3月31日で全て消滅したことを告げた。

2011年6月 6日 (月)

青春はデジタルの時代へ?

 吉田拓郎「ONLY YOU」を聴いている。(朝からスミマセン。夜のビジネスなものですから)

 私はその当時吉田拓郎のファンではない。ただ、知っていると言った程度である。誰にも経験があると思うが場面を象徴する音楽がある。

 今から30年前、私は浪人生だった。私にとって、激しくも、真面目に、甘く過ごした浪人時代を象徴する音楽である。故あって予備校の寮から封書を取りに行った千葉市郊外の郵便局、夏の日差しが降り注ぎはじめ、木陰の下で文字を読む私。電器店のラジカセからはFM放送が流れ、「流星」や「元気です」と吉田拓郎の声が聞こえていた。

 なぜ、月曜の朝からこんな気持ちを書き綴るのかは昨日日曜日の長男に依るところ大である。以下は昨日時系列のツイッターである。

『ハンドボールインターハイ予選、準決勝勝利。1年生ながら次男出場。長男もこれから準決勝。さて、決勝兄弟対決実現するか?』
『決勝兄弟対決実現。今年は長男高校を応援。さて、結果は?』
『はあ、無念。けどさわやか。ハンドボール決勝、長男高校は次男高校に延長の末負けた。長男は快心のシュートを4本決めたが負けた。次男はさすがに決勝には出なかった。試合が終わり、互いにハイタッチで健闘を讃える場面、長男は次男には軽いパンチを見舞わせていた。いい光景だった』
 
 長男の姿に「ああ、チームスポーツはいいなあ」「兄弟っていいなあ」「青春だなあ」と感じ入ったのだ。帰りの車の中で、長男に「良かったぞ、ベストプレーだった」と声をかけると、「うん」「おう」と返事が返ってくる。家に帰ると次男の機嫌は悪かった。何となく分かる。 
                                                                                
 思いかえしてグッとくる、心に染み入るような時をそれぞれ過ごしてもらいたい、と思ったのだが、親の心子知らず、少し経って長男は弟にインターハイの土産を頼んでいた。「ONLY YOU」も音源はアナログからデジタルに変わったのだ。

2011年6月 3日 (金)

スタンプラリー、男は黙って

 「はあ、また明日はスタンプラリーだ」
 「ん?何、スタンプラリーって?」
 「えっ?ガラス割って、始末書」
 「何んで!また!」「けど、なんでスタンプラリーなの?」
 「だってさあ、担任のハンコ、副担任のハンコ、学年主任のハンコ、教務の先生、教頭先生、最後、校長先生のハンコで上がり!」
 「・・・・・・・・・・・・」

 数ヶ月前、中学生だった次男と妻との会話である。

 昨日は年老いた父がトイレからトイレスリッパを履いたまま出てきた。茶の間で脱いだとき、「おじいちゃん、何でトイレのスリッパを!・・・」と三男。バシッ!「バカ、いちいち言うな」と次男が一喝。黙ってスリッパを持ちトイレに返してきた。

 往生際が悪い政治家よりウチの次男の方がよっぽど格好いいわ!


 バカヤロー!

2011年6月 1日 (水)

原発、単なる・・・からの脱却を

 東京電力福島第一原子力発電所の事故調査のために来日したIAEA=国際原子力機関の調査団がまとめる報告の案が明らかになりました。事故直後の状況を考えると、実際に行われた対応は実行可能な最良の方法だったと評価する一方、津波の想定は過小評価だったとするとともに、3年前に指摘した安全規制当局の独立性が改善されておらず、事故対応にとって問題だったと厳しく指摘しています。(6月1日朝:NHK)

 10年程前、柏崎市議会整風会はウィーンIAEA本部に出向き、事務局次長とも面談し、原子力発電所における維持基準の国際化、標準化について意見交換をしてきた。アメリカNRCにおいては大統領から直接任命されるコミッショナーにもお目にかかり、独立する規制機関の有用性、必然性について学んできた。全国の原発立地自治体議会をリードし、連携結束し、あらゆる場面を通じて国に対し原子力規制について要望してきた。原子力を認める立場であるからこそ「規制」という考え方が必要だと思ったのだ。国はそのことを無視し続けてきた。

 そして、今年、福島で事故が起こり、私のベースは崩れ、霧消した。

 全国の原発立地自治体議会の中でIAEA本部やNRC本部に足を運び、スウェーデンやフィンランドの核燃料廃棄物の地層処分について学ぶため、地下500mまで潜った議会会派など他に無いだろう。

 しかし、こんな自慢話も全く意味をなさない。事故は起こってしまったのだ。政局の中で今後の日本のエネルギー政策について国民的議論が喚起されるのだろうか。原子力規制委員会が立ち上げられ、陣容を強化充実し、経産省から独立した執行機関、国家行政組織法による3条委員会として位置づけられるのだろうか。

 柏崎市よ、柏崎市議会よ、福島に代わって大きな声を出せるのはあなた達しかいないのですよ。最も慈しんできたものを失いつつある福島の方々の思いを代弁できるのはあなた達しかいないのですよ。ここで柏崎が組み立てを行わずどうする!単なる反対派か!単なる推進派か!

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