命、言葉、原発
いきなり大上段で恐縮だが、先週末、「命」を考えさせられる機会が続いた。時間外の病院で、医師、看護師の皆さんが共に駆け回る忙しさを目の当たりにした。看護師さんは本当に走っていた。救急隊員の繁忙を共有した。
ベッドの上の病人。言葉を発することができず、体の自由がきかず、認識を失う、という事態を回りの者たちはどのように考えればよいのか。表面上、本人は気持ちよさそうに寝ているのだ。命、という漢字に「口」という文字があることを考えれば、言葉は大切な要素なのだと気付かされた。
さて、言葉を失う、というのは唖然とする、あきれる、という意味で使うはずだが、文字通り、心に思うその本音を言葉にすることをできず、意思疎通ができない事態は辛く、悲しいものである。
分かっていた、うっすら気付いていたけど言い出せなかった。こんな事態を私たちは反省しなければならないと思う。反省の度合いはそれぞれ異なるのであろうが、反省をしなければならないと思う。
原発の推進・容認の立場で進んできた私たちは技術を過信し、安全、安心というものを結果としてないがしろにしてきたこと。結果として。
原発反対、脱原発派の皆さんの立場で考えれば原発を止めたのは結果として「運動」ではなく自然であったという事実。結果として。
保守は賛成、革新は反対、イデオロギーで賛否を論じられた原発。
経済か、命か、二者択一で論じられた原発。
国、電力会社だけに責任があるのではない。原発推進派も容認派も反対派も結果として、国民は電気に囲まれた豊かな生活を享受してきた。また、原発立地点に住む者たちは、無論それを拒否してきた意志の強い方々もおられるだろうけれども、大方の人はその恩恵を享受してきた。ハコモノであろうが、交付金であろうが受け入れてきたのだ。結果として。私たちにも責任はあるのだ。
同じことを同じように繰り返してはならないと思う。立場ある方々にお願いしたい。イデオロギーを超え、目の前を見た、先を見た、そして本音の言葉を発信して頂きたいと思う。発信して頂きたいと思う、柏崎から。